5世紀後半、古墳時代の天皇だったワカタケル大王。
ワカタケル大王の名を一度は聞いたことがある人は多いと思いますが、どんな人で何をした人なのかご存知でしょうか?
今回は【ワカタケル大王は何した人なのか】についてまとめました。
ワカタケル大王に関する史料や古墳などに触れながら、彼がどんな人物だったのかを一緒に見ていきましょう。
ワカタケル大王はどんな人?
ワカタケル大王は第21代天皇・雄略天皇です。
大王とは古代日本における天皇のことです。
また、ワカタケル大王は倭の五王と呼ばれた1人「倭王武」とも呼ばれています。
倭の五王はヤマト王権の歴代の王を指し、讃・珍・済・興・武の5人です。
倭の五王は当時、ワカタケル大王も含めて中国南朝の宋に使いをおくっていました。
ワカタケル大王には、いくつもの呼び名があったとか。
他にも「大長谷若建」や「大泊瀬幼武」とも呼ばれていました。
ワカタケル大王は、日本国内において周りの地域国家をヤマト王権に従わせて軍事力で王権を強化します。
さらに、国外においても自分の力を示すために、みずから国外に出向くなど外交にも積極的な人物でした。
ワカタケル大王は国を強くしようと行動的な人物でしたが、とても気性が荒い性格だったといわれています。
国の政治や自分の地位のために、多くの人を処刑しました。
ワカタケル大王は何した人?
ワカタケル大王は気性が荒くて思うがままに行動していたわけではありません。
彼は倭国を良くしようと、さまざまな政策を行いました。
ワカタケル大王が何をしたのか見ていきましょう。
ヤマト王権の強化
ワカタケル大王は以下の政策を行い、ヤマト王権を強くしようと試みます。
- 大臣や大連といった有力豪族を武力で支配する
- 百済からの渡来人を技術者として迎える
ワカタケル大王によって独裁的な支配がおこなわれ、大王を中心とした中央集権体制が確立されたのです。
養蚕の取り組み
ワカタケル大王は養蚕にも興味を持ち、国内の蚕を集めます。
日本では、弥生時代に中国大陸から伝わって養蚕が行われていました。
養蚕とは、繭(生糸)をつくるために虫である蚕を飼育することです。
また、ワカタケル大王は中国から機織りの技術者を迎え、国内の技術力を向上させようとしました。
新羅へ出兵
ワカタケル大王は鉄資源を求め、高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた朝鮮半島にも向かいました。
鉄資源の確保のために、朝鮮半島南部への影響力を強くしようと考えます。
5世紀後半、朝鮮半島では高句麗が百済と新羅に圧力をかけていて、倭国は新羅を助けます。
助けた報酬として、倭国に逆らわないように求めましたが、新羅は従いませんでした。
倭国と新羅との関係はあまり友好的ではなく、ワカタケル大王は倭国に従わない新羅に対して兵を派遣し攻めます。
宋と外交
倭の五王とよばれる代々の大王が宋に朝責(貢物を送ること)の使者を送った記録が宋の書物に残されています。
当時、倭の五王は宋に貢物を送って、倭国のリーダーとして認めてもらいました。
478年、ワカタケル大王は宋に上表文(文書)を提出して、皇帝から朝鮮半島の軍事権と支配権を与えられました。
ワカタケル大王に関する史料や古墳
残されている史料や古墳から、ワカタケル大王は雄略天皇や倭王武だったと推測できます。
古事記と日本書紀
古事記と日本書記は、ワカタケル大王を以下のように記しています。
- 古事記…大長谷若建の「若建」
- 日本書記…大泊瀬幼武の「幼武」
ワカタケル大王は「考古学で存在が確認された最古の天皇」だといわれているみたい。
宋書倭国伝
宋書倭国伝によると、5世紀に倭国の王が宋に朝貢をおこなったと記されています。
478年に宋に使いをおくって上表文を提出し、皇帝から「安東大将軍・倭王」の称号を授かりました。
ワカタケル大王の目的は、宋の皇帝に認められ、国内の支配を安定させることだったと考えられています。
稲荷山古墳と江田船山古墳
1978(昭和53)年、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣から115文字の銘文が発見されました。
その中の「辛亥年七月」と「獲加多支大王」の文字が注目されます。
辛亥年は471年、獲加多支大王は「わかたけるのおおきみ」と読み、倭の五王である倭王武や雄略天皇を指すと考えられています。
また、熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳から出土した鉄刀にもワカタケル大王を表す文字があり、同じく雄略天皇のことであると考えられています。
埼玉県と熊本県の古墳からワカタケル大王に関わる鉄剣や鉄刀が出土したため、当時の彼が支配していた地域が広範囲だったことが分かりました。
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まとめ
今回は【ワカタケル大王は何した人なのか】について解説しました。
ワカタケル大王は独裁的で気性が荒い性格でしたが、倭国のために様々な政策をおこなっていました。
また、ワカタケル大王は当時の史料や古墳の出土品から雄略天皇や倭王武と呼ばれていたことも推測できます。
ワカタケル大王については未解明な部分も多いですが、今後の調査によって彼の新たな一面が解明されることを期待しましょう。
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