2024年7月から5,000円札の顔に津田梅子が選ばれました。
津田梅子は明治時代に初の女性留学生としてアメリカに渡り、津田塾大学を開いたことで有名です。
彼女はどのような思いで津田塾大学を作ったのでしょうか?
本記事では、お札の顔で有名になった【津田梅子の生涯】について詳しく解説します。
アメリカ留学でさまざまな刺激を受けた津田梅子がどのように生きていたのか、さっそく見ていきましょう。
岩倉使節団と共にアメリカへ
日本は外国と肩を並べるため、日本人女性の教育に力をいれていました。
そこで、1871年12月に岩倉使節団と津田梅子を含む5名の女子がアメリカに向かいます。
梅子の父は初め、梅子の姉を留学させようとするも姉は拒否。
そのため、代わりに7歳の梅子に応募させることに…。
梅子は「広い世界が見られて楽しそう」と留学に乗り気だったようです。
しかし、留学生の津田梅子たちは、長い船旅で徐々に元気をなくしていきます。
その様子を見て、伊藤博文が海外の面白い話を語り、元気づけようとしました。
津田梅子にとって伊藤博文との出会いは大きな意味のあるものでした。
常に優秀だった留学生時代
アメリカに留学した津田梅子はワシントン市内のチャールズ・ランマン邸にホームステイします。
ランマン夫妻は子どもがいないため、津田梅子を実の娘のように非常に可愛がりました。
小学校に通い始めた津田梅子は必死に勉強し、学芸会で大活躍して地元の新聞に掲載されます。
ランマン夫妻は、必死に勉強する津田梅子の身体を心配します。
しかし、津田梅子は「私は日本のお金で留学に来ています。私がだめであれば日本人はみんなだめなのだと思われてしまう。私の父や母までがだめだと思われたくない」と語ったそうです。
まだ幼いのに日本人の代表である自覚をもっているなんて素晴らしいですね。
中高一貫の女学校に入学してからも優秀な成績を取っていた津田梅子。
彼女は11年の留学生活を終えて日本に帰国しました。
帰国後の津田梅子に起こったハプニング
1882年に帰国した津田梅子に2つのハプニングが起こります。
- 日本語を忘れてしまった
- 英語を使った仕事が見つからない
以下で1つずつ詳しく見ていきましょう。
日本語を忘れる
1つ目は、幼い頃にアメリカで過ごしたため、日本語をまったく思い出せなくなっていたのです。
ある日人力車に乗った津田梅子が家に財布を忘れてきたことに気づきます。
しかし、運転手に話しかけようとするも日本語がまったく話せません。
通りかかったアメリカ人女性が通訳して解決。
津田梅子は運転手さんに笑われてしまいました。
英語を使った仕事が見つからない
2つ目は、留学経験のある津田梅子の英語力を使った仕事が見つからないことです。
あるパーティーで再会した伊藤博文は、そんな津田梅子に英語教師の仕事を紹介します。
仕事がなくて焦っていた津田梅子は英語教師の仕事をすぐに引き受けました。
津田梅子は伊藤博文の妻や娘に英語を教える家庭教師の仕事もしていました。
政治家の妻も英語を話さなれけばいけない時代だったようです。
津田梅子が抱える苦悩と友人との再会
津田梅子は女性教育の必要性を伊藤博文に訴え、1885年に華族女学校(のちの学習院女子中高)を創立。
梅子は華族女学校で英語科の教員として働き始めますが、厳しい梅子の授業に生徒はついていけません。
また、津田梅子も勉強に情熱的ではない女学生の態度に不満を持つようになりました。
そんな中、華族女学校では英語教育のレベルアップを目指すため、講師にアリス・ベーコンを迎えます。
留学生時代から津田梅子と仲がよかったアリスは「梅子が日本の女性教育を変えたいなら、もう一度アメリカに留学すべきだ」と梅子に提案します。
アリスの意見に衝撃を受けた津田梅子は、アメリカに2度目の留学を決意したのです。
2度目の留学と帰国後の変化
津田梅子は1889年にブリンマー大学に入学し、英語・歴史・生物学と幅広い分野を学びます。
津田梅子は科学者として優秀な成績を収め、日本人女性で初めて科学論文を書いて発表したのです。
アメリカの大学で学びながら、津田梅子は「日本人女性を育てるための学校を作る」と決意を固めていました。
ブリンマー大学ですべての科目を修了した津田梅子は、再び華族女学校の教師に戻ります。
これまでの授業とは雰囲気が変わり、学生たちは積極的に発言するようになりました。
そして、津田梅子の授業が評判を呼び、次々に講演依頼が舞いこみます。
アメリカで行われた万国婦人クラブ連合大会にも日本代表として招かれました。
3000人の前で日本の女性教育についてスピーチした梅子は、最も優秀な演説だったと絶賛されています。
2人の外国人女性との出会い
さまざまな場所で活躍していた津田梅子は、ヘレン・ケラーとナイチンゲールに出会います。
ヘレン・ケラーとナイチンゲールの出会いで津田梅子は刺激を受け、津田塾大学の創設に力を入れていくのです。
ヘレン・ケラーとの出会い
万国婦人クラブ連合大会の後、留学時代にホームステイしていたランマン邸で、津田梅子は少女時代のヘレン・ケラーと出会います。
津田梅子の活躍を聞いたヘレン・ケラーが、ぜひ梅子に会ってみたいとランマン邸を訪れたのです。
ランマン邸で楽しい時間を過ごした後、ヘレン・ケラーは津田梅子に手紙を書いて見せました。
そのメッセージはこちら。
「ミス・ツダの成功と幸せを、心からお祈りしています。あなたの友達、ヘレン・ケラー」
津田梅子はヘレン・ケラーの手紙に感動し、大切に何度も何度も読み返しました。
ナイチンゲールとの出会い
万国婦人クラブ連合大会の後、アメリカからイギリスに招かれた津田梅子は当時79歳になるフローレンス・ナイチンゲールと面会します。
日本の女性に対する意識が低いと語る津田梅子に、ナイチンゲールは以下のように答えました。
「イギリスも40年前はそうだったんですよ。日本が遅れているなら、これから変わればいいのです。ミス・ツダ、未来は必ず変えられます」
津田梅子はナイチンゲールの言葉に胸を打たれました。
ナイチンゲールは津田梅子にスミレの花束を送りました。
梅子は花束を押し花にして大切に保存、今も津田塾大学の資料室に残されています。
教育界に大きな影響を与えた女性たちに出会い、勇気をもらった津田梅子は津田塾大学を設立する計画を作り上げました。
津田梅子が女子英学塾の設立
1900年7月、津田梅子は女子英学塾(のちの津田塾大学)の設立を申請します。
ついに、津田梅子の理想とする日本女性の学校が誕生です。
資金については、津田梅子の親友やアメリカの恩師が多くの人に声をかけ寄付が集まりました。
津田梅子の情熱に共感した人々の協力で女子英学塾が設立されたのですね。
同年9月に開校した学校はわずか10名の生徒でスタートしました。
津田梅子は「英語を用いる国際人」の育成を目指すために、まずは日本の文化や習慣をしっかり身につけることを重視します。
その後、レベルの高い授業内容が話題となり、入学希望者が増え、校舎も大きくなりました。
激動の生涯を終える
日本の女性教育のために頑張り続けた津田梅子は、1929年8月16日に64歳で生涯を終えました。
津田梅子が亡くなる前の日記に書かれていた「Storm last night(昨夜は嵐)」という一文は、梅子の人生を表しているようです。
津田梅子のお墓は、現在も津田塾大学のキャンパス内にあるので、気になる人はぜひ訪れてみてくださいね。
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まとめ
今回は新しいお札の顔になった【津田梅子の生涯】について解説してきましたが、いかがでしたか?
日本人初の女性留学生としてアメリカに渡ってから、日本の女性のためにひたむきに走り続けてきた津田梅子。
間違いなく世界に誇れる日本人の1人と言えるでしょう。
津田梅子のお札の話題が出たら、本記事の内容をぜひ教えてくださいね。
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