聖徳太子が政治の中心にいた飛鳥時代、日本と隋の橋渡し役となったのが小野妹子です。
小野妹子に関するくわしい資料は残されていませんが、その名前のインパクトから記憶に残っている人も多いのではないでしょうか?
本記事では【謎多き小野妹子の生涯】をまとめ、古代でどんな役割を果たしたのか解説していきます。
小野妹子と華道の意外な関係についても説明しているので、ぜひ最後までチェックしてくださいね。
【小野妹子】生まれた場所と名前の秘密
小野妹子は近江国小野村(現在の滋賀県大津市)に生まれました。
遠いご先祖様に天皇家がいたため、小野妹子も高貴な身分だったようです。
歴史の授業で小野妹子を学んだ時、名前の最後に「子」がつくことから女性ではないかと思った人もいるかもしれません。
女性の名前に「子」がつけられるようになったのは平安時代からで、飛鳥時代は男性の名前に「子」がつくのは珍しくありませんでした。
小野妹子の名前は中国の偉大な思想家である孔子や孟子にちなんで、「子」という文字が使われました。
しかし、女性を呼ぶときに使う「妹」という字が使われた理由はわかっていません。
ちなみに、平安時代に活躍する女流歌人の小野小町は、小野妹子の子孫にあたります。
遣隋使として活躍した小野妹子
飛鳥時代、聖徳太子が行った遣隋使の派遣。
小野妹子は遣隋使の代表として選ばれ、聖徳太子が書いた手紙を持って隋へ渡りました。
聖徳太子は隋と対等な立場でやり取りをし、文化や法律などを隋から学びたいと考えていたのです。
ここでは、小野妹子が隋に届けた手紙の内容と、彼に起こった最大のピンチを解説します。
聖徳太子の手紙と煬帝の反応
聖徳太子は隋の皇帝:煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という手紙を出しました。
「天子」は隋の皇帝だけが使うのを許された言葉だったため、日本人が勝手に使ったことに煬帝は大激怒します。
煬帝は初め「こんな無礼な人間の手紙など二度と私に持ってくるな」と言って小野妹子を追い出しました。
暴君と言われていた煬帝ですので、もしかしたら小野妹子も命の危険を感じたかも知れません。
しかし、隋は朝鮮半島にあった高句麗と仲が悪く、日本を敵に回すと隋の立場が危うくなるのではと考えました。
結局、煬帝は日本と国交を結ぶことを決めたのです。
小野妹子を襲った最大のピンチ
煬帝からの返事の手紙を持ち、隋の使者:裴世清と日本に帰った小野妹子ですが、この帰り道に事件が起こります。
小野妹子は煬帝からの手紙を朝鮮半島にある百済という国でなくしてしまったのです。
日本書紀には「帰国途中、百済に立ち寄った際、百済の人に国書を奪われた」と記してあります。
重要な手紙を紛失したことで、朝廷は小野妹子を流罪(都から遠く離れた土地に追放する罰)にするべきだと主張します。
しかし、推古天皇の許しがあり、小野妹子は罪には問われませんでした。
推古天皇は「もし小野妹子を流罪にしたら、隋の使者である裴世清も手紙が奪われたことを知ってしまう。そして煬帝に報告されたら、ただでは済まないだろう」と述べました。
流罪の代わりに、再び小野妹子は遣隋使として隋に渡っています。
無事に帰国した後、小野妹子は大和朝廷で最高の位である大徳の役職を与えられました。
小野妹子の罪が軽く済んだことや、位が高くなったことから、国書紛失事件には裏があると言われています。
考えられている真相は下記の2点。
- 煬帝は手紙を送っていない説
隋の歴史書に、日本に国書を送ったという記述がないことから「もともと煬帝は返事を書いていないのでは?」と言われています。 - 煬帝の手紙には日本に都合が悪いことが書かれていた説
例えば「日本を国として認めない」、「推古天皇は天子ではない」など、朝廷の役人に読まれると推古天皇の地位が危うくなる内容だったのではないかという説です。
もし、これらの仮説が真相であれば、小野妹子は手紙をなくした重罪を1人でかぶったことになります。
何かしらの事情があったため、小野妹子の罪は軽くなり、最高の位を授けられたのかもしれませんね。
仏門に入った小野妹子
ある時、小野妹子は聖徳太子に付き添って、京都に来ていました。
聖徳太子は四天王寺という寺を作るために、材料を探しに来ていたそうです。
587年、聖徳太子は京都に六角堂(紫雲山頂法寺)を建てます。
小野妹子に「これを本尊として守るように」と観音像を渡し、小野妹子は出家して六角堂の住職になりました。
住職になった小野妹子は、池の近くに住むための坊舎を作り、朝夕とも仏前に花を供えたといいます。
日本で初めて仏前に欠かさず花を供えたのが、小野妹子です。
それが華道の始まりと語り伝えられているんですね。
小野妹子のお墓は2つある?
日本には小野妹子のお墓とされる場所が2つあるので、それぞれを紹介します。
科長神社(しながじんじゃ)
大阪府太子町にある科長神社。
神社の南側にある石段を登ると小野妹子の墓があります。
太子町には小野妹子にゆかりある推古天皇、聖徳太子のお墓もあります。
科長神社では、小野妹子を華道の祖として祀っており、現代も華道池坊(華道で有名家元)によって管理されています。
唐臼山古墳(からうすやまこふん)
滋賀県大津市にある唐臼山古墳も小野妹子の墓ではないかと伝えられています。
唐臼山古墳の場所には小野妹子公園があります。
ここには「唐臼妹子神社」と記した石碑があり、大きな方形の石室をいくつか見ることが可能です。
石室から7世紀前半の須恵器や土師器が出土しているため、唐臼山古墳は大和朝廷にいた位の高い人物の墓だと推測されています。
小野妹子は640年前後に亡くなったと推定されているので、時代の一致から唐臼山古墳は小野妹子の墓だと考えられています。
唐臼山古墳にある小野妹子神社には、今でも外交官や駐在員など多くの参拝客が訪れています。
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まとめ
今回は【謎多き小野妹子の生涯】を解説しましたが、いかがでしたか?
遣隋使として2度も隋に渡った小野妹子は、仏前に欠かさず花を供える華道家の一面も見せました。
そのため、現代も外交官や華道家から尊敬を集めているのでしょう。
小野妹子の墓とされる科長神社は紫陽花や紅葉の名所で、唐臼山古墳の小野妹子公園は市民の憩いの場になっています。
本記事を読んで興味を持った人は、ぜひ2つの神社に足を運んでみてくださいね。
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