源平合戦はどっちが勝った?合戦のまとめ一覧や戦いの流れも解説!!

平安時代

平安時代の終わりに起きた源平合戦げんぺいがっせん源氏げんじ平氏へいしの戦いで、鎌倉幕府ができるきっかけとなりました。

源平合戦の名を一度は聞いたことがある人は多いと思いますが、源氏と平氏のどちらが勝ったのか知っていますか?

そこで、今回は【源平合戦は源氏と平氏のどちらが勝ったのか】についてまとめました。

源平合戦の戦いの一覧や時代背景も分かりやすく解説しているので、ぜひチェックしてみてくださいね!

源平合戦のきっかけ

源平合戦とは、その名のとおり源氏と平氏が対決した戦いで、最終的に源氏が勝利します。

コト子
コト子

源平合戦とは1つの戦いではなく、長い期間くりひろげられた一連の戦いを指します。

源氏と平氏が争うきっかけになった出来事が鹿ヶ谷の陰謀。ししがだにんのいんぼう

鹿ヶ谷の陰謀は、平氏が中心の政治に不満を持つ後白河上皇らが平氏を倒す計画のこと。

Bさん
Bさん

当時、後白河上皇は朝廷で院政いんせいをおこなっていました。
院政とは、天皇から上皇になって政治をおこなうことです。

しかし、この計画は平氏に知られたため失敗、平清盛きよもりは後白河上皇による院政を停止させました。

源平合戦における8つの戦い

源平合戦は、その時代の年号から治承・寿永の乱じしょう・じゅえいのらんとも呼ばれます。

コト史
コト史

源平合戦における8つの戦いを一覧にまとめました。

1180年5月 以仁王たちが挙兵 以仁王・源頼政VS平清盛(平氏の勝ち)
1180年8月 石橋山いしばしやまの戦い 平氏軍の大庭景親VS源頼朝(平氏の勝ち)
1180年10月 富士川ふじがわの戦い 源頼朝・武田信義VS平維盛(源氏の勝ち)
1183年5月 倶利伽羅峠くりからとうげの戦い 源義仲VS平維盛(源氏の勝ち)
1184年1月 宇治川うじがわの戦い 源範頼・義経VS源義仲(範頼側の勝ち)
1184年2月 一ノ谷いちのたにの戦い 源範頼・義経VS平宗盛(源氏の勝ち)
1185年2月 屋島やしまの戦い 源義経VS平宗盛(源氏の勝ち)
1185年3月 壇ノ浦だんのうらの戦い 源範頼・義経VS平宗盛(源氏の勝ち)

源平合戦は源氏が挙兵したのち、最後は壇ノ浦の戦いまでおよそ5年も続きます。

コト子
コト子

1180年5月に起きた源氏の挙兵から、最後の戦いである壇ノ浦の戦いまでを詳しく見ていきましょう。

以仁王・源頼政が挙兵

鹿ケ谷の陰謀がきっかけとなり、平清盛は後白河上皇を政治から追い出しました。

その翌年、1180年5月に後白河上皇の皇子:以仁王もちひとおうが平氏を倒そうと全国の武士に呼びかけます。(平氏追討の令旨)

コト史
コト史

以仁王は源頼政よりまさとともに挙兵しましたが、平氏に敗れてしまいました。

石橋山の戦い

源氏のリーダーであった源義朝よしともの嫡男:源頼朝が、島流しにされていた伊豆で挙兵しました。

頼朝は味方であった相模国さがみのくにの三浦氏と合流する予定でしたが、石橋山(現在の神奈川県小田原市)で平氏方の大庭景親おおばかげちかに敗北。

コト子
コト子

頼朝は逃げる時、平氏方の梶原景時かじわらのかげときに見つかりますが、運よく見逃してもらったと言われています。

富士川の戦い

石橋山の戦いで敗北した源頼朝は、千葉常胤ちばつねたね上総広常かずさひろつねなど関東の武士に協力を求めます。

源頼朝と平維盛これもりらが駿河国富士川するがのくにふじがわ(現在の静岡県富士市)の対岸でにらみ合いました。

コト史
コト史

この時、平氏は水鳥が羽ばたく音を源氏が攻めきたと勘違いして、逃げてしまったのです。

倶利伽羅峠の戦い

源頼朝のいとこ:源義仲が挙兵して、加賀国かがのくに越中国砺波山えっちゅうのくにとなみやま(現在の石川県と富山県)で平維盛これもり軍と戦いました。

約10万人の軍隊を持つ平維盛に対し、源義仲は兵を分けて攻撃して圧倒的な勝利をおさめます。

コト子
コト子

源義仲の妻:巴御前ともえごぜんも大将として活躍したことや、平維盛の軍を松明たいまつを付けた牛で倒したというエピソードもあります。

宇治川の戦い

倶利伽羅峠の戦いで大勝利した源義仲は、都で後白河上皇を閉じこめて政権を握ろうとします。

源頼朝は、源義仲を倒すために弟の源範頼と義経を都へ派遣したのです。

源義仲は、山城国宇治川やましろのくにうじがわ(現在の京都府宇治市)で源義経に敗れました。

コト史
コト史

宇治川の戦いは、源平合戦の中で唯一の源氏どうしの戦いでした。

一ノ谷の戦い

源範頼と義経は宇治川で勝利した後、二手に分かれて平氏のいる摂津国福原せっつのくにふくはら(現在の兵庫県兵庫市)に向かいます。

そして、源義経が平宗盛むねもりの軍に攻撃をしかけました。

Cさん
Cさん

源義経が崖を馬で駆け降りて攻めた鵯越の逆落ひよどりごえのさかおとし」が有名です。

屋島の戦い

一ノ谷の戦い後、源義経は嵐の海を越えて讃岐国屋島さぬきのくにやしま(現在の香川県高松市)で平氏を攻めました。

平氏は源義経に押されて戦いをあきらめ、さらに西の方へと逃げていきました。

コト史
コト史

屋島の戦いは、那須与一なすのよいちが海上の扇の的を見事に射ぬいたことでも有名です。

壇ノ浦の戦い

逃げ道を絶たれてしまった平氏は、負けを覚悟で源義経と壇ノ浦だんのうらで戦いました。

源義経は潮(水)の流れをうまく利用して、平氏との最後の決戦に勝利したのです。

コト子
コト子

平氏は8歳の安徳天皇あんとくてんのうや三種の神器じんぎとともに入水し、滅亡しました。


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まとめ

今回は、【源平合戦は源氏と平氏のどちらが勝ったのか】について紹介しました。

源平合戦は、はじめ平氏が有利でしたが、徐々に源氏の勢力が拡大し、源氏が勝利をおさめました。

源氏がいくつもの戦いを乗り越えたことで、のちの鎌倉時代へとつながっていったのです。

本記事で紹介した源平合戦ゆかりの地もぜひ訪れてみてください。

当時の源平合戦の様子が想像できて、きっと楽しめること間違いなしです。

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