鎌倉時代の終わりに、日本が元(現在のモンゴル)から2度も攻められた元寇が起きました。
とても強かった元ですが、ある一人の武士がいたおかげで日本が勝利します。
元寇で活躍し、当時の日本を守った武士はいったい誰なのでしょうか?
そこで今回は【元寇で戦った武士とその活躍】についてまとめました。
元寇の様子や関連する絵画資料についても分かりやすく解説しているので、ぜひチェックしてみてくださいね!
【はじめに】元寇とは
元寇とは鎌倉時代に元軍が日本を侵略するため2度にわたって、北九州に攻めてきたできごとです。
元は、チンギス・ハンがモンゴル(蒙古)を統一、孫のフビライ・ハンが国号を元としたことから歴史が始まりました。
元が攻めてきたことに対し、当時の鎌倉幕府8代目の執権:北条時宗は守りを固めて対抗しました。
元寇は別名「蒙古襲来」ともいい、文永の役と弘安の役があります。
それぞれ1つずつ解説します。
文永の役(1274年)
元を建てたフビライ・ハンは、日本にも降伏して支配下になりように求めます。
しかし、北条時宗は元の要求を断り、戦いに備えて西日本の守りを固めました。
元は高麗の兵を従えて、まず壱岐・対馬(長崎県)を襲撃したあと、博多湾(福岡県)に上陸します。
元軍は集団戦法やてつはう(火薬の武器)による攻撃で、武士たちを苦しめました。
しかしタイミングよく、元と高麗軍の内紛があり、元は引き上げていきました。
弘安の役(1281年)
元の再襲撃に備え、北条時宗は博多湾に石塁(石の防壁)を築き、守りを強化します。
元は宋(南宋)をほろぼしたあと、再び北九州に攻めてきました。
しかし、武士の抵抗や突然の暴風雨にあって日本に上陸すらできずに退散していったのです。
元寇を退けたのは2度にわたって暴風雨が原因だったため、「神風」のおかげといわれてます。
しかし、暴風雨よりも幕府がつくった石塁と武士の活躍のほうが大きかったという見方が有力です。
元寇で活躍した竹崎季長
元寇では多くの武士たちが強力な元軍と戦いました。
その中で、もっとも活躍した武士が肥後国(現在の熊本県)の武士:竹崎季長。
竹崎季長は1246年(寛元4年)に生まれました。
亡くなった年は不明です。
竹崎季長は肥後国の竹崎郷(現在の熊本県宇城市松橋町)出身で、肥後国を本拠地とする菊池氏の一族でした。
しかし、身内との領土争いに敗れ、竹崎季長は落ちぶれていきます。
元寇で活躍して出世しようと考え、戦いに参加。
竹崎季長は元軍と必死に戦って活躍したにもかかわらず、褒美をもらえませんでした。
褒美をもらうために鎌倉幕府まで出向き、交渉をしました。
その後、報酬を受け取った竹崎季長は、元軍の2度目の侵攻においても活躍してみごと勝利しています。
元寇で活躍した竹崎季長の行動
元寇で活躍した竹崎季長の行動についてくわしく解説します。
文永の役での先駆け
先駆けとは、まっさきに敵の中に攻め入ることです。
竹崎季長は親戚や家臣とたったの5騎で戦いに参加し、日本軍の総大将である少弐景資の下で戦いました。
なんとか手柄を取りたい竹崎季長は少弐景資にお願いして、先駆けて元軍に攻撃を仕掛けます。
戦いの途中で竹崎季長は怪我を負ってしまいますが、それでも懸命に戦いました。
竹崎季長の先駆けにより元軍は福岡県の博多湾から撤退し、みごとに勝利をおさめたのです。
鎌倉へ交渉に向かう
竹崎季長は文永の役で活躍したにもかかわらず、恩賞をもらえませんでした。
そこで、鎌倉幕府への直訴(訴え出ること)を思い立ち、一族が反対を押し切って鎌倉へと向かいました。
竹崎季長は約2ヶ月で鎌倉に着きました。
安達泰盛に直訴
竹崎季長は、鎌倉にある多くの奉行に面会を頼みますが、会ってもらえませんでした。
そこで、竹崎季長は幕府の御恩奉行(恩賞を判断する奉行)である安達泰盛の家の前に座りこんで直訴します。
家の中に入ることを許可された竹崎季長は、安達泰盛に対して文永の役での活躍をアピールしました。
その結果、竹崎季長の活躍は安達泰盛から認められ、役職と馬を与えられたのです。
弘安の役での活躍
地頭の役職に就いて経済的に余裕ができた竹崎季長。
彼は、兜・鎧などの武備を整えた姿で再び博多まで出陣し、元軍の大船に乗りつけて勇敢に戦います。
元軍は日本軍の攻撃と幕府がつくった海岸の石塁によって、上陸できずに引き返していきました。
元寇の様子を記録した絵画資料
竹崎季長は元寇での功績を残すため、自分の戦いの様子を絵に描かせました。
これが「蒙古襲来絵詞」という絵画資料です。
蒙古襲来絵詞には、竹崎季長が元寇で功績をあげ、地頭の役職をうけた流れが描かれています。
また、当時の社会や戦いの状況、使われた武器や武具などが分かる絵画資料のため、大きな価値があります。
蒙古襲来絵詞には、竹崎季長の様子が以下のように描かれています。
- 文永の役で先駆け
- 文永の役で竹崎季長が怪我を負ったこと
- 竹崎季長が鎌倉で安達泰盛に直訴したこと
- 竹崎季長が安達泰盛から馬を与えられたこと
- 弘安の役で元軍の船上で戦ったこと
蒙古襲来絵詞は、東京都千代田区の国立博物館「皇居三の丸尚蔵館」に納められています。
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まとめ
今回は【元寇で戦った武士とその活躍】について解説しました。
竹崎季長は元寇における2度の戦いで活躍した武士。
彼は自分の功績が認められるように直訴までして、勇敢ながら自分をしっかりアピールする力もありました。
竹崎季長の元寇の様子を記録した「蒙古襲来絵詞」は皇居三の丸尚蔵館で実際に見ることが可能です。
興味を持った人はぜひ資料館に足を運んで、当時の元寇や竹崎季長について理解を深めてくださいね。
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