国語の教科書に掲載されている「走れメロス」の作家である太宰治。
彼は太平洋戦争の前後に活躍した日本を代表する作家です。
太宰治は1948年に玉川上水で入水自殺をしますが、それまでに4回も自殺未遂を図っていることをご存知でしょうか。
本記事では太宰治の生涯を振り返り、【死にたがりと言われる理由】を考察していきます。
いくつもの作品を生み出した太宰治がなぜ死にたがっていたのか、一緒に探っていきましょう。
太宰治はどんな人?
太宰治は青森県の北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市)で生まれました。
太宰治の本名は津島修治と言います。
中学時代の成績は148名中4番で、非常に優秀な人物でした。
芥川龍之介や井伏鱒二の小説を夢中になって読んでいた太宰治は、17歳頃から小説を書き始めます。
弘前高等学校を卒業後、太宰治は「肩書がかっこいい」という理由から東京帝国大学(現在の東京大学)の文学部仏文学科に入学。
のちに学費未納により、太宰治は退学になっています。
ちなみにフランス語は読めなかったそうです。
太宰治がおこなった4つの自殺未遂
精神的に不安定になることが多かった太宰治は乱れた生活を送り、自殺未遂を4回も繰り返しました。
ここからは複数の自殺未遂について、それぞれ詳しく見ていきましょう。
4回の自殺未遂で、太宰治は「死にたがり」と言われるようになったのかな?
【20歳】睡眠薬で自殺未遂
太宰治は、1929年12月10日に弘前市の下宿先で大量の睡眠薬を摂取し、自殺未遂を起こします。
女性関係や成績不振による自殺説も考えられましたが、太宰治が自殺を図った理由ははっきりしていません。
太宰治が尊敬する芥川龍之介が1927年7月に「ぼんやりした不安」を理由に服毒自殺しました。
それに影響を受けて太宰治も自殺を考えるようになったのではないかとも言われています。
【21歳】田部あつみと心中未遂
太宰治はカフェの店員だった田部あつみと鎌倉の海岸で心中事件を起こしました。
田部あつみの本名は田部シメ子と言いますが、本人は「あつみ」と名乗っていたそうです。
彼女の見た目は、一度会ったら忘れられないくらいに美人だったとか。
2人は睡眠薬を購入し、それを飲んで自殺を図りました。
その結果、田部あつみは亡くなり、太宰治は生き残ります。
太宰治は自殺ほう助(自殺の手助けをした)の罪で取り調べを受けますが、実家の働きかけがあり、罪には問われませんでした。
この時、太宰治は最初の妻である小山初代と婚約しており、他の女性と心中した太宰治に小山初代は怒りを感じていました。
田部あつみは太宰治の短編「道化の華」に登場する園のモデルです。
【25歳】鎌倉での自殺未遂
太宰治は1935年の3月に自宅を出て以降、数日間行方不明になります。
家族や友人が自殺をしたのではないかと、警察に捜索を依頼。
太宰治が家に戻った際、首に赤いミミズ腫れが見つかりました。
また、東京武蔵病院のカルテには「鎌倉にて縊死(首をくくること)未遂」と書かれており、自殺を図ったのではないかと言われています。
自殺しようとした理由は以下のように考えられています。
- 大学の留年
- 小説を書く上でのスランプ
- 新聞社の就職試験に落ちた
【27歳】小山初代と心中未遂
1935年に虫垂炎で入院した太宰治は、その時に服用した鎮痛剤によって薬物依存になってしまいます。
さらに、タイミング悪く、芥川賞にノミネートされたものの、落選。
落選のショックで精神的に不安定になり、薬物中毒はさらに悪化しました。
太宰治は精神病院に入院することになります。
太宰治の妻:小山初代との仲も悪くなり、2人は群馬県にある谷川温泉の近くで睡眠薬による心中を図りましたが、未遂に終わりました。
太宰治と離婚した小山初代は満州(当時中国の北部にあった国)に渡ったようです。
太宰治2回目の結婚
小山初代との離婚後、実家や師匠:井伏鱒二の力を借り、太宰治は石原美知子と2度目の結婚をしました。
石原美和子と結婚して落ち着いた生活を送っていた太宰治ですが、1941年以降、別の女性と関係を持つことになります。
この時、太宰治の愛人となった太田静子は「斜陽」という小説のモデルになった女性です。
「斜陽」は太田静子の日記を元に書かれた小説でした。
さらに1947年には、美容師をしていた山崎富栄という愛人もできます。
当時、太宰治は結核にかかっており、山崎富栄は看護師の役割も果たしていました。
山崎富栄は太宰治の仕事をサポートしたり、生活を支えていたりしました。
38歳で命を絶った太宰治
太宰治は山崎富栄と共に、玉川上水に身を投げて入水自殺を図ります。
太宰治は結核の悪化や他の作家との不仲、師匠:井伏鱒二との関係悪化に苦しんでいました。
さらに、税務署から納税の通告を受けますが、手元にお金がないため払えません。
この納税問題が太宰治を追い詰めるきっかけになります。
これまで自殺未遂を繰り返してきた太宰治ですが、この入水自殺の結果、山崎富栄と共に遺体で発見されました。
2人はお互いの腰を赤い紐で結び、固く抱き合った状態でした。
太宰治の遺体が見つかったのは、彼の誕生日である6月19日です。
死の1ヶ月前には「人間失格」という有名な小説を書き上げ、「グッド・バイ」という小説を13話まで残しています。
「人間失格」は太宰治の苦悩を表現した内容と言われており、主人公:葉蔵のモデルは太宰治ではないかと考えられています。
「グッド・バイ」は太宰治の遺作であり、未完のまま終わっています。
太宰治のお墓
三鷹市にある禅林寺に太宰治のお墓があります。
太宰治は生きている時に、明治時代の文豪である森鴎外と同じ禅林寺の墓に入りたいと希望していました。
彼の願い通り、森鴎外の墓の斜め前に太宰治の墓があり、三鷹市の指定文化財になっています。
毎年6月19日「桜桃忌」と呼ばれる太宰治の命日には、全国から彼のファンがやってきます。
死の直前に太宰治が書いた「桜桃」という短編小説の題名から「桜桃忌」と名付けられました。
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まとめ
今回は太宰治が【死にたがりと言われる理由】について考察しました。
太宰治は自殺・心中未遂を2回、そして4回目の自殺でこの世を去ります。
金銭問題や薬物中毒、作家生活に行き詰まったことなどが自殺の理由に考えられます。
太宰治は何度も自殺未遂を繰り返し、その経験から名作を生み出しました。
本記事を参考に、彼の作品を読み、彼の人生に触れてみてください。
太宰治の苦悩に共感できる部分が見つかるかもしれません。
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