戦国時代に生きた細川ガラシャは熱心なキリシタンとして有名ですが、彼女の人生は、どれほど壮絶だったのか気になりますよね。
実はあの有名な明智光秀・細川忠興・石田三成らの3人によって波乱万丈なものになります。
本記事では、【細川ガラシャが何をした人なのか?彼女のトラブル続きの人生】について解説します。
彼女がさまざまな困難を乗り越え、懸命に生き抜いた人生を振り返ってみましょう。
明智光秀の三女に生まれた細川ガラシャ
細川ガラシャは、1563年に越前国(現代の福井県)で明智光秀の三女として生まれました。
細川ガラシャの本名は細川玉子であると言われています。
1578年に明智光秀の主君:織田信長の考えで、室町幕府に仕えていた細川藤孝の長男:細川忠興との政略結婚が決まります。
その後、1582年に明智光秀が織田信長を討つ「本能寺の変」を起こしました。
謀反(裏切り)を起こした明智光秀が討たれ、細川ガラシャの母親と兄弟も滅ぼされます。
夫である細川忠興に離縁されると覚悟した細川ガラシャ。
しかし、細川忠興はガラシャを丹後国(現在の京都府京丹後市)の山奥にある屋敷に2年ほど閉じ込め、別れることはなかったのだそう。
忠興が細川ガラシャを離縁しなかった理由は、彼女への愛情が深かったからと言われています。
細川ガラシャがキリシタンになるまで
キリスト教に興味を持ったきっかけ
1584年、細川ガラシャは豊臣秀吉の許しを得て、京都の山奥から大阪にある細川家へと戻りました。
再び夫婦で暮らすようになったものの、細川忠興はガラシャの行動を厳しく監視するようになりました。
ある日、細川忠興はキリシタン大名であった高山右近の話を細川ガラシャに聞かせます。
その後、ガラシャは徐々にキリスト教の教えに救いを求めるようになりました。
夫である細川忠興との会話がきっかけで、細川ガラシャはキリスト教に興味をもつようになったのです。
夫の留守に教会へ
細川忠興が九州へ向かった際、細川ガラシャはこっそり教会へ向かいます。
教会に行った彼女は日本人修道士に対して熱心に質問をしましたが、その場で細かな身分を明かせなかったため、洗礼は見送りとなり受けられませんでした。
教会はガラシャの服装や持ち物をみて、身分が高い女性だと判断したそうです。
「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と後に修道士が語っています。
細川ガラシャは自由に教会へ行けなかったため、侍女を通じて教会と連絡を取り合い、キリスト教の信仰を続けました。
洗礼を受け、キリシタンに
豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出し、細川ガラシャはキリシタンになるために早く洗礼を受けなければと焦ります。
バテレン追放令は、キリスト教の宣教師を日本から追い出し、キリスト教の教えを広めることを禁止したもの。
豊臣秀吉はキリスト教の勢力が拡大するのを恐れていたのです。
幸いにも、細川ガラシャは住んでいる屋敷で特別に洗礼を受けることが許されました。
これにより、ラテン語で「神の恵み」を意味する「ガラシャ」という名前をもらい、細川ガラシャが誕生したのです。
洗礼を受けた細川ガラシャに対する細川忠興の反応
九州から帰ってきた細川忠興は、細川ガラシャが洗礼を受けたことに大激怒します。
細川ガラシャは細川忠興に刀を向けられ、キリスト教の信仰を辞めるように言われたことも…。
しかし、細川ガラシャはキリスト教の信仰を辞めませんでした。
細川忠興との離縁も考えた細川ガラシャですが、カトリックは離縁を認めていません。
宣教師も離縁を思いとどまるようにと、必死に説得したようです。
細川ガラシャに悲劇をもたらした石田三成
豊臣秀吉が亡くなり、時代が大きく変わっていきます。
細川ガラシャの夫である細川忠興は、徳川家康に仕えるようになりました。
忠興が家康と共に福島の会津に向かうため、大阪の屋敷を留守にします。
細川忠興は家臣たちに「もし敵が攻めてきたら、妻を殺したうえで全員切腹せよ」と命令して、屋敷を出ました。
その隙をついたのが、家康の敵である石田三成でした。
夫の留守を狙った石田三成
細川忠興が会津に向かった後に、屋敷を攻めてきた石田三成には考えがありました。
三成の作戦は、大名の妻や子ども達を大阪城に人質に取ること。
人質にすれば、家康の味方である大名をこちら側に引きいれられると考えたようです。
忠興の妻:細川ガラシャへの溺愛っぷりは有名だったので、三成は初めに彼女の元に向かいました。
石田三成の提案を断った細川ガラシャ
細川ガラシャは石田三成の人質になることを拒否。
ガラシャは夫の細川忠興が、自分のせいで徳川家康を裏切ってはいけないと死を決意します。
キリスト教では自害が禁止されています。
そのため、家臣が細川ガラシャの胸を刺し、屋敷に火を放ちました。
38歳という若さで細川ガラシャはその生涯を終えることになったのです。
細川ガラシャが最期に残した和歌
細川ガラシャは亡くなる時に、細川忠興に和歌を残しています。
この世に別れを告げる時、昔の人は和歌に気持ちを込めました。
その和歌は「辞世の句」と呼ばれています。
今回はそのうち2首の和歌を紹介していきます。
【ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ】
この歌は「散るときを知っているからこそ、この世で花は花として美しく、人もまたそうなのだ」という意味。
武家の娘に生まれ、武家に嫁いだ身として、細川ガラシャは死に際をよく理解していたのでしょう。
この歌から細川ガラシャの強い覚悟が感じられますね。
【先立つは 今日を限りの 命とも まさりて惜しき 別れとぞ知れ】
この歌は「あの世に先立ち、命が今日限りだということよりも残念なのは、あなたとの別れなのだ」という意味。
これは細川ガラシャの気持ちをまっすぐに詠んだ歌です。
忠興に対するガラシャの愛情が伝わってきますね。
2つの和歌を受け取った忠興は、ガラシャの死を深く悲しみ、号泣します。
ガラシャを失った悲しみをバネに、関ヶ原の戦いで大健闘した細川忠興。
1601年には大阪の教会で、細川ガラシャの葬儀が行われました。
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まとめ
【細川ガラシャが何をした人なのか?彼女のトラブル続きの人生】を解説しました。
謀反人の父を持ち、夫に溺愛された細川ガラシャは、キリスト教に救いを求めました。
最期に残した和歌から、細川ガラシャの強い意志と夫への深い愛情が感じられますね。
本記事を通じて、細川ガラシャの魅力をみなさんに知っていただけたら幸いです。
細川ガラシャは大河ドラマやゲームにも登場する機会があるので、ぜひチェックしてみてください。
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