十七条の憲法や冠位十二階の制度を作ったことで有名な聖徳太子。
彼が亡くなった時、当時の人はとても悲しんだと言い伝えられています。
しかし、どんな原因で聖徳太子がこの世を去ったのか、詳しく語られていません。
本記事では【聖徳太子の生涯と死因とされる3つの説】についてまとめています。
飛鳥時代の人気者がなぜ亡くなったのか、その謎に迫ってみましょう。
聖徳太子の生涯
574年、聖徳太子は飛鳥の地(現在の奈良県明日香村)に生まれました。
母親が散歩中に、厩戸(馬小屋)の前で太子を出産したことから「厩戸皇子」と名付けられています。
このエピソードは、日本で最も古い歴史書の日本書紀に記録が残っています。
太子は生まれてすぐに話し始め、5歳の時には毎日数千文字を覚えたというかなり優秀な人物でした。
さらに、11歳の時には36人が一度に話した内容を、すべて聞き分けられた伝説が残されています。
私の中学校の担任は、クラスの皆が口々に何かを話し始めると「先生は聖徳太子じゃないから聞き取れない!1人ずつ話して!」とよく怒っていました。
大勢の話を聞き分けるなんてすごい技術ですね。
太子が20歳の時に伯母である推古天皇の摂政になり、政治を良くしようと様々な場面で活躍します。
聖徳太子が行った政治の内容はこちら。
- 冠位十二階
- 十七条の憲法
- 法隆寺を建てる
- 遣隋使を送る
優秀な聖徳太子は飛鳥時代の政治に欠かせない人物でした。
聖徳太子の死因に関する3つの説
聖徳太子は622年、49歳でこの世を去りましたが、死因はよくわかっていません。
ただ、聖徳太子の死因と考えられる説は以下の3つ。
- 病死説
- 暗殺説
- 自殺説
以下では、1つずつ説明していきます。
病死説
一番有力とされる説は疫病にかかり亡くなったという説です。
この頃は詳しい病名もわかりませんでしたが、おそらく天然痘だと考えられています。
天然痘とは伝染力が非常に強いウイルス性の病気で、症状は高熱や全身の水ぶくれなどです。
1980年に世界保健機関(WHO)によって根絶宣言が出されています。
聖徳太子の母が621年に疫病で亡くなり、太子もその時に発症したようです。
また、聖徳太子が亡くなる1日前に、太子の妻:膳部菩岐々美郎女も疫病にかかり亡くなります。
聖徳太子と亡くなった妻は同じ日に葬儀をあげ、母と夫婦の3人は同じお墓に埋葬されました。
暗殺説
膳部菩岐々美郎女の翌日に聖徳太子が亡くなったのは不自然であることから、「聖徳太子は何者かに暗殺された」という説があります。
誰が命を狙っていたのか、黒幕として疑われている2名を紹介しましょう。
1人目は蘇我馬子です。
蘇我馬子は聖徳太子と協力して政治をおこないますが、実際は太子の存在を快く思っていなかったようです。
蘇我馬子は政治の中心におり、権力をふるっていました。
蘇我氏が政治を支配するために、太子を暗殺しようとしたのではないかと疑われています。
2人目は、蘇我馬子の娘であり、聖徳太子の第2妃だった蘇我刀自古郎女です。
蘇我刀自古郎女は身分も高く、後に天皇の地位を受け継ぐことが可能な山背大兄皇子も産んでいます。
しかし、聖徳太子は蘇我刀自古郎女よりも低い身分である膳部菩岐々美郎女を愛しました。
聖徳太子は農作業中の膳部菩岐々美郎女に一目惚れをして、身分の差を乗り越えて結婚します。
膳部菩岐々美郎女への愛情が深い太子は「死んだら同じお墓に入ろう」とまで伝えていました。
蘇我刀自古郎女は相当プライドを傷つけられたでしょう。
嫉妬心を持っていた蘇我刀自古郎女は、聖徳太子に毒を盛り、疫病に見せかけて命を奪ったのではないかと考えられています。
蘇我刀自古郎女が太子の命を奪った証拠は残っていませんが、聖徳太子の死後に蘇我氏が勢力を強めたのは事実です。
自殺説
聖徳太子は自ら命を絶った説はかなり衝撃的ですが、この説が言い伝えられている理由が3つあります。
1つ目は、平安時代に書かれた「聖徳太子伝暦」にて、太子が膳部菩岐々美郎女と心中をしたという描写があること。
2つ目は、亡くなる前に生きていても無意味という意味の言葉「世間虚仮」を残していること。
世間虚仮とは、地位やお金など、この世にあるものはすぐになくなってしまうという意味。
世間虚仮の後ろには、仏を信じなさいという意味の言葉「唯仏是真」が続きます。
そのため、世間虚仮は聖徳太子が自ら命を絶った根拠にはならないでしょう。
3つ目は、亡くなった直後に身分が低い妃と一緒に葬儀をしたこと。
当時は、不幸な死に方をした人は怨霊になるかもしれないと考えられ、他の人と一緒に葬儀することがよくありました。
亡くなってすぐに妃と一緒に葬儀をしたことで、何か不審な死を遂げたのではないかと考えられています。
聖徳太子の自殺説は根拠が少ないため、積極的に語られることはないようです。
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まとめ
今回は【聖徳太子の生涯と死因とされる3つの説】について解説しましたが、いかがでしたか?
聖徳太子の死因は、一番有力とされる「疫病にかかって病死した説」以外に、暗殺説や自ら命を絶った説があります。
また、聖徳太子が実は愛妻家であったという一面を知って、驚いた人も多いでしょう。
本記事をきっかけに、聖徳太子の人生に興味を持っていただけたら幸いです。
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