安土城は、日本の歴史上でとても有名な戦国武将である織田信長が築きました。
今はなき安土城は、織田信長の存在感を表現した素晴らしい城だったとか。
具体的にどこが素晴らしかったのか理由が気になりますよね。
そこで本記事では【織田信長が築いた安土城がすごい理由】についてまとめています。
織田信長と安土城の歴史を分かりやすく解説しているので、ぜひチェックしてみてくださいね!
そもそも織田信長は何をした人?
織田信長は、尾張国(現在の愛知県)出身の戦国武将。
少年時代は短めの袴を着て栗や柿を食べながら、家来を引き連れて歩くヤンチャな男の子だったとか。
織田信長は19歳で家を継ぎ、織田家の代表となります。
その後、ヤンチャな性格が活かされたのでしょうか。成長した彼は27歳のときには駿河(現在の静岡県)の戦国大名:今川義元を桶狭間の戦いで討ち取ることに成功しました。
2万5000人の今川軍に対して、わずか3000人の信長軍が勝利し、信長は尾張国を見事に統一して全国にその名をとどろかせたのです。
その後の安土城城を築くまでの流れをまとめました。
35歳 | 上洛(京の都に行くこと)をして足利義昭を室町幕府の15代将軍にする |
37歳 | 浅井氏や朝倉氏を姉川の戦いで破る |
38歳 | 浅井氏や朝倉氏に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにする |
40歳 | 自分を裏切った足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼす |
42歳 | 騎馬隊の武田軍を足軽鉄砲隊によって長篠の戦いで破る |
43歳 | 琵琶湖のほとりに豪華な「安土城」を築く |
信長の少年時代のヤンチャぶりは、大人になると天下を統一するという野望へと変わりました。
織田信長が49歳のとき、家臣の明智光秀の裏切りにあい、京都の本能寺で追い込まれて自害する出来事・本能寺の変が起こります。
関所の廃止や楽市楽座など統一事業の完成を進め、東北や関東も支配し、秀吉に命じた中国征伐も順調だったころでした。
信長は天下統一を目前にして敗れ、安土城も焼失してしまったのです。
織田信長が建てた安土城とは?
織田信長は長篠の戦いの翌年1576年、近江国(現在の滋賀県)の琵琶湖のほとりに安土城を築きます。
琵琶湖の水面から高さ100メートルの安土山の山頂に建てられ、城の完成には約3年かかりました。
安土城は、織田信長の天下布武(武力を持って天下を統一すること)のシンボルになっていました。
織田信長は当時住んでいた岐阜城から安土城に移り住み、天下統一の拠点にします。
当時の城の中でも安土城の外観や設備は素晴らしいものでした。
安土城がすごいと言われる理由
安土城が歴史上の城の中でもすごいと言われる理由は3つあります。
- 7重の天主(安土城だけ天守ではなく天主と書く)を持つ
- 安土城のつくりや立地の良さ
- 敵の侵入を防ぐ
1つずつ詳しく見ていきましょう。
7重の天主を持つ
安土城は大型の天主(安土城だけ天守ではなく天主と書く)を持つ城で、七重の天主がそびえ立っていました。
天主には派手な赤い瓦や金箔などが使われ、外壁は黒漆塗りと金で豪華な見た目でした。
また、一番上の七重目にはベランダや手すりがあり、天主からは広い景色を楽しむこともできたようです。
さらに、上の屋根にはなんと金箔を貼った瓦と金のしゃちほこ。
金をたくさん使った城の屋根は、天下人の象徴だったのです。
そして六重目は奈良の法隆寺を真似て、柱は朱色で縁側に手すりがつけられていました。
これまでの城の一般的なデザインは敵からの守りを重視したものでした。
しかし、織田信長が築いた安土城は自分の強さと権力を示す、これまでにない新しく斬新な城だったのです。
安土城のつくりや立地の良さ
自分の強さを見せつけただけではなく、建物のつくりや立地にもこだわってた織田信長。
安土城は頑丈な柱や壁を使用しており、敵から鉄砲や大砲で攻められることを想定して幅の広い水掘や高い石垣も作られていました。
城の中心は信長の住居や政治を行う建物があり、家臣が住む場所も城内に設置されていました。
この頃から城は軍事的な要素だけでなく、政治を行う場所としての役割も持っていました。
さらに、都の近くに築かれた安土城は立地の良さが特徴。
織田信長は琵琶湖の水路も下記のように上手く利用していました。
- 色々な物資を運んだり人が移動したりしていた
- 琵琶湖の近くに建つ有力な家臣の城と連携して水運を支配
その結果、安土城を中心に城下町も大いに発展させたのです。
織田信長は安土城を建てたことで便利で優雅な生活を手に入れました。
安土城は織田信長が戦いで滅ぼした敵の城や、付近の城跡から資材を集めて建てられたと言われていますよ。
敵の侵入を防ぐ
安土城は敵からの防衛も一流。
安土城の城内には石垣がめぐらされており、切り出した石をそのまま使って石垣がつくられました。
石垣の高さは5メートル以上のところもあり、敵の侵入を防ぐ役割をしていました。
目の前に5メートルもの高さの石垣があったら、敵も侵入するのを諦めてしまいますね。
こだわりぬいて建てられた安土城は、織田信長ご自慢の城だったことが分かりますね。
安土城が焼失した原因が未解明
織田信長の強さと権力を大いに表現されていた安土城。
そんな安土城は建設されてわずか6年で焼失してしまいました。
安土城が焼失した原因は未解明ですが、4つの説が存在します。
- 本能寺の変で信長を倒した明智光秀が代わって安土城に入り、羽柴秀吉との戦いで敗れたときに、明智軍が火をつけた説
- 秀吉との戦いで敗れた明智軍を全て追い払うために、信長の次男・織田信雄が火をつけた説。
- 明智軍がいなくなった安土城に盗賊が金品を狙って侵入し、最後に火をつけた説。
- 安土城に雷が落ちたことで火事になってしまった説。
どの説が事実でもおかしくはなさそうですが、安土城の焼失の謎は歴史学者の間で現在も議論されているミステリーです。
現在は城の形跡がなく謎が残っていることも、語り継がれる安土城の魅力かもしれませんね。
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まとめ
今回は【織田信長が築いた安土城がすごい理由】について解説しました。
天下統一を目前に敗れた織田信長ですが、安土城も信長の後を追うように焼失してしまいます。
安土城の豪華な見た目や防御設備、立地の良さは、後の時代の城づくりに大きな影響を与えました。
織田信長の時代がもし続いていたら、安土城があった琵琶湖の辺りが日本の中心になっていたかもしれませんね。
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