古墳時代、奈良県の大和の地に存在したヤマト王権。
ヤマト政権は、当時の日本を統一していたといわれています。
それでは、ヤマト王権は具体的にいつ存在していたのでしょうか?
本記事では【ヤマト王権はいつ存在したのか】について解説します。
ヤマト王権の時代背景も分かりやすく解説しているので、ぜひチェックしてみてくださいね!
【はじめに】ヤマト王権とは
ヤマト王権とは、3世紀後半以降から大和地方(現在の奈良県)を中心にできた大きな連合勢力。
日本で初めて統一国家をつくったのは、このヤマト王権なのです。

ヤマト王権は、ヤマト政権や倭王権などとも呼ばれ、ヤマト王権の政府は大和朝廷といいます。
豪族というムラやクニの支配者がヤマト王権をつくり、そのトップは大王と呼ばれ大きな権力を持っていました。

ヤマト王権には未解明な歴史がありますが、中国の漢書地理志、後漢書東夷伝、魏志倭人伝に記録が残っています。
それでは、当時の日本を統一していたヤマト王権は、具体的にいつ存在していたのか詳しく見ていきましょう。
ヤマト王権はいつ存在した?
ヤマト王権は、古墳時代の3世紀後半から7世紀頃に存在したとされています。

ヤマト王権は、大王を中心とした豪族たちのゆるやかな連合勢力で、のちの日本がつくられるもとになったのです。
ヤマト王権のはじまり
ヤマト王権が始まった時期は、はっきりとはわかっていません。
邪馬台国の女王だった卑弥呼が亡くなった後、3世紀後半から成立されたといわれています。

小さなムラやクニが集まって、しだいに連合勢力として誕生していったのです。
ヤマト王権の空白の時期
ヤマト王権が存在した時期には「空白の4世紀」と呼ばれる時代があります。
実は、空白の4世紀の間のできごとや人々の暮らしについては、現在でも解明されていないのです。
空白の4世紀とは、歴史のできごとや人々の暮らしなどがハッキリと解明されていない時期のこと。

空白の4世紀はその年数から「空白の150年」とも呼ばれています。
空白の期間は邪馬台国の時代から倭の五王までの時代までです。

4世紀前後の3世紀から5世紀にかけては、倭国(現在の日本)の状況は大きく変わっています。
ヤマト王権のおわり
ヤマト王権は、大和地方(現在の奈良県)から全国へその勢力を拡大していきました。
ヤマト王権が成立したのち、倭の五王と呼ばれた大王たちが権力を強化していったのです。

倭の五王はヤマト王権の歴代の王を指し、讃・珍・済・興・武の5人です。
また、ヤマト王権は5世紀頃、鉄資源を求め高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた朝鮮半島にも向かいました。

ヤマト王権は、外交にも力を入れていたのです。
また、武人をまつった古墳からは、武器や馬具が出することもあります。

武器の中でも有名なのが「獲加多支鹵大王(=雄略天皇)」と刻まれた鉄剣で、埼玉県と熊本県の古墳から出土したことから、ヤマト王権を支配していた雄略天皇の支配がかなり広い範囲だったことが分かっているのです。
やがて、7世紀後半にはヤマト王権から律令国家(律令制度に基づいて支配をおこなった統一国家)へと変わっていきました。

ヤマト王権の中心だった大王や豪族たちは、そのまま新しい律令国家の中心となったのです。
ヤマト王権に関する古墳

ヤマト王権の時代がわかる古墳について詳しく説明します。
古墳の中でも前方後円古墳は当時の大王の墓で、ヤマト王権の勢力を示したシンボル。

残されている古墳から、ヤマト王権がおよそいつごろ存在していたのか推測できます。
前期の前方後円墳(3世紀後半〜4世紀後半)
ホケノ山古墳 | 奈良県桜井市 |
箸墓古墳 | 奈良県桜井市 |
浦間茶臼山古墳 | 岡山県岡山市 |
石塚山古墳 | 福岡県苅田町 |
黒塚古墳 | 奈良県天理市 |
中期の前方後円墳(4世紀後半〜5世紀後半)
誉田御廟山古墳 | 大阪府羽曳野市 |
大山陵古墳 | 大阪府堺市 (仁徳天皇陵) |
太田天神山古墳 | 群馬県太田市 |
造山古墳 | 岡山県岡山市 |
後期の前方後円墳(6世紀〜7世紀)
五条野丸山古墳 | 奈良県橿原市 |
岩戸山古墳 | 福岡県八女市 |
日本各地に前方後円墳があるので、気になった人はぜひ足を運んでみてくださいね。
まとめ
今回は、【ヤマト王権はいつ存在したのか】について解説しました。
ヤマト王権は、古墳時代の3世紀後半から7世紀頃に存在したとされていますが、はっきりとはしていません。
しかし、古墳などからも分かるようにヤマト王権の勢力拡大が、のちの日本がつくられるもとになったことは間違いありません。
今後の調査によって、ヤマト王権に関する新たな発見と解明を期待しましょう。
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