フランス革命で処刑された人は誰?処刑されて理由を詳しく解説します

ヨーロッパ大陸

1789年から1799年に起こったフランス革命。

国民たちは平等や自由を求めて権力に立ち向かいますが、王様に反抗した人の多くは処刑されていました。

命をかけて権力に立ち向かい、処刑されてしまった人はどんな人なのでしょうか?

そこで今回は【フランス革命で処刑された人】について詳しく解説します。

処刑された理由も知ることで、フランス革命の知識をより深められるでしょう。

【フランス革命】処刑された人一覧

フランス革命で処刑された人について、下記の表にまとめました。

処刑された人 処刑日 処刑された理由
ルイ16世(フランス国王) 1793年1月21日 国を裏切ったため
マリー・アントワネット(フランス王妃) 1793年10月16日 国を破滅させたため
ジョルジュ・ダントン(革命軍リーダー) 1794年4月5日 革命の理想を裏切ったため
シャルロット・コルデー(反革命軍) 1793年7月17日 革命家:ジャン=ポール・マラーを暗殺したため
マクシミリアン・ロベスピエール(革命軍リーダー) 1794年7月28日 恐怖政治を推し進め、独裁者となった疑いがあるため
オランプ・ド・グージュ(作家) 1793年7月17日 反革命的な考えを持っていたため
アントワーヌ・ラヴォアジエ(化学者) 1794年5月8日 王様側に協力したため
コト史
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ここからは、上記の処刑された人たちを1人ずつ詳しく掘り下げていきます。

ルイ16世:最後のフランス王

ルイ16世はフランスの国王として国を治めていました。

コト子
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当時のフランスは経済が非常に悪化していて、国民の生活はとても苦しいものでした。

食料不足や高い税金などに対する国民の不満が溢れはじめます。

そのような状況で、ルイ16世と王妃:マリー・アントワネットは宮殿で贅沢な暮らしを続けていたため、さらに国民の怒りは増すことに…。

ついに、フランス国民は立ち上がり、ルイ16世を王位から引きずり下ろしました。

コト史
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彼は国を逃げ出そうとしましたが、捕まってしまいます。

ルイ16世は「国を裏切った罪」で裁判にかけられました。

裁判の後、ルイ16世は1793年1月21日にギロチンで処刑されます。

マリー・アントワネット:悲劇の王妃

マリー・アントワネットは、ルイ16世の妻でフランス王妃でした。

彼女はオーストリアの王女として生まれ、フランスに嫁いできた人物です。

美しいドレスや宝石、豪華なパーティーが大好きだった彼女は、国民からは贅沢すぎると批判されていました

コト子
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パンが足りなくなって困っている国民に対して、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったとか。

この言葉がさらに国民の怒りを買いました。

フランス革命が進むにつれ、マリー・アントワネットも逮捕されます。

マリー・アントワネットは「国を破滅させた罪」で裁判にかけられ、1793年10月16日にギロチンで処刑されました。

コト史
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彼女は最後の瞬間まで堂々とし、自分の運命を受け入れたと言われています。

ジョルジュ・ダントン:革命の熱い心

ジョルジュ・ダントンは、フランス革命におけるリーダーのひとりでした。

コト史
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彼は力強く「自由と平等」のために戦いました。

ジョルジュ・ダントンの演説は国民を勇気づけ、革命初期において重要な役割を果たします。

しかし、次第に彼は「このままでは革命があまりにも過激すぎる」と考えるようになり、より穏やかな方法を求めるようになりました。

コト子
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ジョルジュ・ダントンの考えは、革命の激しさを支持するロベスピエールたちには受け入れられませんでした。

ジョルジュ・ダントンは「革命の理想を裏切った」として1794年4月5日に処刑されます。

彼の死によって、フランス革命において異なる意見を持つことがどれほど難しいかが分かりますね。

オランプ・ド・グージュ:平等のために戦った女性

オランプ・ド・グージュは、女性の権利を強く主張した作家であり活動家でした。

彼女は「女性も男性と同じ権利を持つべきだ!」と考え、女性の権利を訴える多くの文章を残しています。

コト子
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特に「女性と市民の権利宣言」は有名です。

女性も男性と同じように自由・平等であるべきだという考えを表明しました。

しかし、オランプ・ド・グージュの考えは、当時の社会では「反革命的」とされ、1793年11月3日に処刑されました。

マクシミリアン・ロベスピエール:革命のリーダーから処刑へ

マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス革命を進めた革命軍のリーダーでした。

コト史
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彼は「すべての人が平等であるべきだ!」と強く信じ、革命を進めていきました。

しかし、マクシミリアン・ロベスピエールが推し進めた「恐怖政治」は、革命に反対する者を次々と処刑する恐ろしいものだったのです。

革命に反対した多くの人々がギロチンで命を落とし、恐怖と混乱が広がりました。

最初は支持を得ていたマクシミリアン・ロベスピエールも、恐怖政治によって多くの仲間や市民から恐れられるようになります。

そして1794年7月28日、彼も「独裁者」と見なされ、処刑されてしまいました。

シャルロット・コルデー:暗殺者の勇気

シャルロット・コルデーは、革命家:ジャン=ポール・マラーを暗殺した女性です。

コト子
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彼女は、ジャン=ポール・マラーがフランスの混乱を引き起こしていると信じ、自らの手で彼を止める決意します。

1793年7月13日にシャルロット・コルデーは彼の自宅を訪れ、刺し殺しました。

しかし、シャルロット・コルデーはすぐに逮捕され、7月17日にギロチンで処刑されました。

彼女の行動は、信念に基づき勇敢に立ち向かう姿を示していますが、その行動が必ずしも良い結果を生むわけではないと教えてくれます。

アントワーヌ・ラヴォアジエ:科学者が巻き込まれた革命

アントワーヌ・ラヴォアジエは、化学の分野で大きな貢献をした科学者であり、「近代化学の父」とも呼ばれています。

コト史
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彼は税金を集める仕事もしており、そのことで国民から敵視されるようになりました。

そんなアントワーヌ・ラヴォアジエは、1794年5月8日に「王様側に協力した」と勘違いされ、処刑されてしまいます。

人々が混乱していたフランス革命では、勘違いによる処刑が多かったのが分かりますね。

Dさん
Dさん

勘違いで処刑されるのは恐ろしい話ですね。

革命中の人々は混乱していたため、正しい判断ができなかったのかもしれませんね。


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まとめ

今回は【フランス革命で処刑された人】について、詳しく解説しました。

フランス革命では「正しさ」や「自由・平等」の考え方がすれ違うことで、たくさんの人たちが命を落としたことが分かりましたね。

現代における私たちの社会は、命をかけて平和を目指した人々のおかげであることを忘れてはいけません。

誰もが自由に意見を言えること、平等に扱われることを当たり前と思わず大切にしていきましょう。

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