2024年7月3日、約20年ぶりに新紙幣が発行されました。
新しくなったお札を求めて、銀行に押し寄せる人も多くいましたね。
本記事では、【新しいお札の顔に選ばれた人物】について1人ずつ詳しく解説します。
また、それぞれの人柄を表すエピソードも紹介していきますので、ぜひ最後までご覧ください。
【渋沢栄一】日本資本主義の父
福澤諭吉に代わり、10,000円札の顔となったのは「渋沢栄一」です。
渋沢栄一は江戸時代の後期に生まれ、若い時は最後の将軍である徳川慶喜に仕えていました。
明治維新の後は大蔵省(現在の財務省のような場所)に入り、後に会社を経営する実業家になります。
そんな渋沢栄一の人生と魅力について見ていきましょう。
日本の企業を成長させた人生
実業家である渋沢栄一は、企業を500社ほど新しく作り、人の作った企業の発展に協力しました。
現在も167社もの企業が日本に残っているそうです。
渋沢栄一が作った企業を5つ紹介します。
- 第一国立銀行(現在のみずほ銀行)
- 官営富岡製糸場(現在の片倉工業)
- 清水建設
- 三越呉服店(現在の三越伊勢丹)
- 日報社(現在の毎日新聞)
名前は変わっているけど、今でも残っている大企業ばかりだね!
渋沢栄一は偉大な功績を数多く残してきたことから「資本主義の父」と呼ばれています。
資本主義とは「企業は材料や工場、そして人にお金をかけてお金を儲けていこう!」とする考え方です。
社会の中でお金を動かしていくことが得意だった渋沢栄一ですが、ただお金儲けを重視していたわけではありませんでした。
人々の幸せのためにお金を稼ぎ、動かすのだと「道徳経済合一説」で唱えています。
「道徳経済合一説」は、経済をより良くするには道徳と経済どちらも欠けてはならないという考え方です。
渋沢栄一は若い頃から儒教を学んでいたため、社会全体を大切にしていこうという考えを強く持っていました。
ゲームも本気!チャレンジャーの渋沢栄一の魅力
渋沢栄一は「知らなくてもとにかくやってみる」と、常にチャレンジ精神を持っていた人物です。
そんな渋沢栄一の性格がよく分かるエピソードを紹介します。
ある日の夜、渋沢栄一の息子が兄や友達とトランプゲームをして盛り上がっていました。
ゲームのルールを知らない渋沢栄一は、みんなが遊んでいるのを真剣に見つめ、ルールを完璧に覚えてしまいます。
息子たちとの真剣勝負の末、大勝利したのです。
ちなみに、大盛り上がりのゲームは夜が明けるまで続きました。
当時、渋沢栄一の年齢は70代だったそうなので、相当エネルギッシュですね!
渋沢栄一の好奇心の強さと負けず嫌いが、日本の経済を発展させたのかもしれません。
【津田梅子】女性教育の先駆者
樋口一葉に代わって、5,000円札の顔になった人物は「津田梅子」です。
津田梅子は明治維新の頃、岩倉具視らと一緒にアメリカに留学しました。
親元を離れアメリカに向かったのはわずか6歳、船の中で7歳の誕生日を迎えたそうです。
そんな津田梅子の活躍と人物像を見ていきましょう。
女性が主役の教育を目指した
アメリカで高度な教育を受けた津田梅子は、帰国後に英語の先生になりました。
再度アメリカに3年間留学し、帰国後の1900年に女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立します。
津田梅子は、女性の地位向上と個性を活かす世の中を目指し、女学生たちに幅広い学問を熱心に指導しました。
誰よりも熱血!今も慕われる津田梅子
津田梅子は非常に厳しかったが、優しい先生だったと生徒たちが語っています。
生徒とのエピソードをいくつか上げてみましょう。
ある生徒が英語の間違ったスペルを黒板に書いてしまったんです。
津田先生に「先生になる人がスペルを間違えるとは何事だ」とクラス中がこっぴどく怒られてしまいました。
英作文の内容の一部を切り取って、自分がどう思うか1時間ほど話し合いをしたんです。おかげで物事を深く考える習慣がつきました。
他にも、進級テストを風邪で欠席したが、津田梅子が個別で試験を行ってくれたという話もあります。
こんなに生徒思いの素敵な先生がいたら、現代でも生徒から人気が高いでしょうね。
女子英学塾を開いた時、アメリカにも津田梅子を応援する人がたくさんいたようです。
【北里柴三郎】近代日本医学の父
野口英世に代わり、1,000円札の顔となった人物は「北里柴三郎」です。
東京医学校(のちの東京大学医学部)を卒業後、1885年からドイツのベルリン大学に留学し、その後も医学会に欠かせない人物になりました。
そんな渋沢栄一の人生や性格について紹介していきます。
粘り強さが成功の鍵!破傷風を発見
病原微生物学者のコッホの下で、実現不可能と言われていた破傷風の菌の取り出しに成功します。
そして、血清治療という破傷風を治す方法も開発しました。
日本に戻ってからも研究を続け、慶應大学医学部と日本医学会の設立にも力を貸しています。
実は野口英世は北里柴三郎の弟子です。
1,000円札の顔は弟子から師匠にバトンタッチされたのですね。
これぞ九州男子!北里柴三郎の研究スタイル
非常に厳しい性格だった北里柴三郎は、弟子たちに「ドンネル先生」と呼ばれていました。
ドイツ語である「ドンネル」は日本語で「雷おやじ」という意味です。
研究に対する厳しさは、ドイツに留学していた頃のエピソードからも想像ができます。
誰よりも長く研究室にこもっていたため、周りの人々は誰も北里柴三郎の家を知らず、研究室に住んでいるのではと噂されていました。
とにかく粘り強く研究に取り組む北里柴三郎は、多くの弟子から尊敬を集めていました。
成功するまで何度も挑戦し続けるという研究の姿勢は、現代の私たちも見習いたいですね。
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まとめ
本記事では【新しいお札の顔に選ばれた人物】の人生や興味深いエピソードを振り返ってきましたが、いかがでしたか?
経済、教育、医学と重要な分野を切り開いてきた3人をより深く知ることで、さらに新紙幣を使うことが楽しみになりましたね。
まだ新しいお札が手元にない人も、これから徐々に切り替わっていくようなので心待ちにしましょう。
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